Zx最終話前の与太話
じわじわTOZx最終話「伝承」放送が近くなってきましたね。というわけで、これまでの振り返りを兼ねてZxの感想をまとめてみました。一応はアニメの話題なのですが、必要に駆られて原作Zに対する不満点や叶うことのなかったプレイ時の個人的な希望、それから同世界観となるTOBについてほんの一部触れているので、ネタバレを気にする方は少々ご注意ください。
▼以下ネタバレ
Q.導師の旅はゼスティリアを越えたのか?
A.越えた後ベルセリアに呑み込まれたんじゃないかな 。
どことなく後半戦でBを感じるたび(例えば、ルナールの原作より妙に良心的な描き方、キララウス火山を前にした演出や、グリモ先生の出番など)に、結局Zに描いてほしかったところは描かれないまま終わるのだな、という脱力感にも似た感想を抱きました。
私にとってZxは原作で目に付く悲劇をなかったことにした物語でしかなかったな、と思うのです。
この目に付く悲劇とは何か? それは、
- ドラゴン殺し
- アリーシャの不遇
- ロゼの人間性の欠如(サイコパスとも揶揄される点)
- メーヴィンやデゼルの死、ルナール、サイモンといった中ボスの必要性に対する疑問=物語として演出上必要とは思えないような展開の多さ
こんなところでしょうか。最終回はまだなのでわかりませんが、もし災禍の顕主との戦いが浄化で終われば、1. ドラゴン殺しは「穢れ切ったものを殺さずに救う」と表す方が適切であるように思えます。これに関しては、Zxで救済の余地があることが示され、素直によかったと思える点でした。
また、アリーシャ、ロゼに関する問題性は発売後から各所で見かけておりますが、特にZxはそこらへんの問題をきれいに解決しています。アリーシャはただ旅をしたい少女と姫君としての立場にほんの少し揺れる存在から、それでもなお姫であることを選び続ける芯の強さを明確に描かれました。一方で、迷いなく殺しを続け、終始スレイの考えに影響を与え続けた強すぎる影としてのロゼはいなくなり、時として復讐にとらわれ、自らの行いに疑問を抱く少女としてのロゼが生まれました。
結果として、この二人はスレイから見て対等な従士となり、素養による若干の適正の違いはありますが、最終的に共に神依を操りスレイのサポートを担います。
この二人の描写に関しては、原作よりずっと好感が持てました。それは確かです。
ただ、一方で、彼女たちの問題や彼女たちの周りの社会に対する問題を描くことに力を注ぎ続けた結果、天族という存在との交流がややおろそかになったとも感じるのも事実です。
この点に関しては尺の問題もあるので仕方がない部分ではあるのですが、あえて我儘を言わせてもらうと、妥協しないでほしかった点でした。
上に載せたTOZ再掲記事でも少し言っていますが、Zはプレイをはじめてしばらくしてから私の中で「スレイが世界を救って伝承になる物語」として認識していました。いつか本当にスレイがいたこともわからなくなったとき、冒頭のスレイと同じように「きっとあの人はいたんだ」と言われるような存在になるような物語。
同時に、彼のしたことがのちの人間と天族の共存のはじまりでもあれば良い……とそう思っておりました。言い換えるならば、「スレイが世界を救って伝承になる物語」=「スレイが作る、スレイの理想の世界のはじまり」。
だからこそ、原作スレイは人間社会への関わり方が浅いままにエンディングを迎えたように感じられ、共存を目指す主人公として行動が一方的に思えて不満でした。一方でZxは人間社会にこそ関わってはいるけれど、それに不随する天族の不幸にはあまり目が行っていないように感じられ、またも一方的ではないか?ともやもやすることに。
もちろん、天族を自然から生じるものとしてとらえるのであれば、悪天候やいきなり発生する災害、穢れ切った大地はそのまま天族の不幸として見れるとは思っていますが、人格を持つ個としての天族の苦しみは原作よりもむしろ描写が減ったかな、と思いました。
結論、トータルで見れば、私にとって原作もアニメも、最初に捉えたゼスティリアの形からは遠いのですね。
スレイの夢は、人と天族が共存する世界であって、導師はそのための手段ということを忘れてはいないだろうか? 災禍の顕主を倒す物語になってはいないだろうか? 導師として役割を果たすことが目的とはなっていないだろうか?
……という疑問に、Zxを見てもやっぱりなんとなく否定しきれない自分がいるのでした。
ではどうしてほしかったのかといえば、とにかく、今を生きているモブと関わってほしかった。そして、スレイの望む共存の難しさと、共存へのヒントを歴史から探してほしかった。これに尽きる。
あの世界には、天族なんて見えない人間がたくさんいます。スレイの眠りによってそれらすべてが見えるようになったからと言って、いきなり彼らを敬うだろうか? 共存するだろうか?
答えはNOでしょう。
かつて霊応力が高い人間が多く存在したにも関わらず、Bで語られたような自浄装置が何度も働いているといった歴史がそれを認めています。共存というのは未だかつて誰も成し得なかったことなのです。
だからこそ、原作スレイの眠りはあまりにも無責任に映る。
眠ることそのものを否定するつもりはありませんが、「そこまでやるにはまだやるべきことがあるでしょう?」という気分になりました。例えば、アリーシャや他の”人間”、それも社会の上の方にいて、これから世界を担うような人に一言、眠ったあとの世界を託すと告げる、とか。
そうでなくても、人と天族が眠ればモブの人間とモブの天族が共存していくだろうと思わせてくれるシーンがもっともっと必要だったのではないかな? と思わずにはいられないのでした。
アリーシャもロゼも、あの世界においては天族に近い、あるいは天族を敬えるような存在でした。そういう意味では初めから共存の理想を掲げたときに味方になれる要素を持っていたと言えます。
そういう人ではなくて、天族を否定し続ける人がほんの少し畏怖からではないところで「もしかしたら、いるのかも?」と思うような展開であったり、見えなくても天族と繋がれる人間の姿であったり(これはレディレイクの教会の二人がすでにそんな関係のように思えるが)。
そういう、ほんの少し背中を押せば幸福があるのかもしれないと思う瞬間が名もなき人と天族の間に、もっともっとほしかった。本当ーにほしかった。悲劇はいっぱいあるのに喜劇一歩手前のエピソードなさすぎだろ。遺憾の意。
同時に、スレイはもっと自己満足の冒険をするべきだった、とも思います。
今を生きる人と触れ合うこと。それもまた旅に必要だったと思う要素ですが、スレイにはもう一つ、過去を見ることが必要だった、と思っています。それは彼本人の好きなことが本人の言葉通りに夢につながっていてほしいという思いと、過去成し得なかったことをどうやって成すか、という視点で物事を考えてほしい、という思いによるものです。
Zxはそういう意味では、過去に触れるということをクロスによって果たしています。
アルトリウスという過去の導師が少数の殺しによって多数=世界を救おうとしたことを知り、これは間違っているのではないだろうか? と考えたこと。これ自体は原作をやっていたころからスレイにやってほしかったことなので、嬉しかったです。
……が!!
私が本当の本当にしてほしかったのは、むしろあのミケル様の書いた本の中身を自分の足で知るとかそういうことなんだよお!!!!!!!
スレイは本と身近な遺跡の世界から飛び出した、何も知らない少年でした。
だからこそ、私は、実際にあるものを見て、感じて、知って、それまで信じていたもの、信じていたかったものとのギャップを思い知ってほしかった。
それはその旅が苦労するものであればあるほど、重く、苦悩の種になったと思います。そうしてこそ、ライラさんが初めに言った「答えを出すこと」の輝きが一層素晴らしくなったのではないだろうか?
単なるチャットとしてあれこれ歴史論争をするのではなくて、例えば壁画からアヴァロスト調律時代の天族と人間のいがみ合いがあったかもしれないという可能性を考察する……とか、そういうシナリオが本編にあってこその遺跡好きじゃないんだろうか。違うんだろうか。
単なる趣味だというのならばいっそリフィル先生のようにイっちゃってほしかっ、はい、すみません。
……とにかく、スレイには「共存の夢」を大切にしてほしかった。究極的なことを言えば、導師であることなんざどうでもいいです。それはあくまでも手段なのですから。
そういう夢をひたすら大切にすることこそ、情熱と言えるのではないかなあ……と放送を待ちながらぼんやりと思うのでした。