風の骨という社会とサイコパス
この前、Zx最終話前に長ーい文章をまとめましたが、実はそこで触れ損ねたことがございました。
それが、ロゼとルナールの役割の話。
私の認識なのですが、私はロゼのことは巷で言うようにサイコパスだとかそうでないだとか考えるのは、あまり意味がないと思っています。
それはロゼというより、彼女を含む風の骨という集団が、あの世界の社会から外れた論理を持つ存在だからです。ある種、彼らは「弱者を虐げる存在は死ぬべき」という信念を是とした小さな社会を形成していると言ってもよいです。
そこにあって、自ら率先して虐げる者を排除してきたロゼは称賛されるべき存在でした。身近な人間と「それは社会のためになることだ、誰かがやらなければならないのだ」という考えを共有してきた存在が穢れないのは当り前じゃなかろうか、と思うのですよね。
だって、風の骨という社会に置いては、殺しは皆のためのことだもの。それは彼女たちにとってエゴでもなんでもない。
さらには彼女たちは集団です。一人であれば信じにくいことでも、赤信号みんなで渡れば怖くない……じゃないですが黒が白になってしまうこともあるのではなかろうか。
だからこそ、そこでの彼らの人間性はある程度その社会の影響を無視してはいけないのではないかと思っています。
むしろ問題はその後。スレイとの邂逅後の話の方。
原作ではスレイの存在はロゼにとって「自分にできないことをやってくれるかもしれない人間」でありますが、そうであってもスレイが動けば世界がすぐになんとかなるとは全く思っていなかったのではないだろうか。であるからして、汚れ役は必要であり続けるという考えを捨てなかった。彼女の存在する風の骨(=社会)は結局否定されなかったので、彼女も最後まで(目に見えるところでは)葛藤しません。
これがZxになると、そもそも殺すことに葛藤があるという描写、復讐というエゴの描写、果てはロゼのやってきたことは「今、本当に必要なことじゃない」という指摘が存在します。殺しても殺しても、今のこの世界は綺麗にはならない。本当の意味で幸福な社会……風の骨が殺しによって目指したものに手は届かない、という否定。故に、彼女は「まず世界をすべて綺麗にすること」を目指すという選択をします。
……要はですね。私にとってロゼの葛藤の一番のきっかけは、他者からの風の骨の社会の否定=殺しの否定なのだと思うのです。
それまでに葛藤していたか、というのは実はあまり考えても仕方がないことではないのかな(もちろんあってほしいと思うしだからこそZxはよかったと思うけれど)。たとえ葛藤していたとしても、きっとあの社会においては「殺しは必要なことだ」と諭されておしまいですし。
ある意味で、ロゼもまた狭いコミュニティから外に出てきたスレイと同じ立場という認識なのでしょうね。
そこで他者から否定されるかどうか、という意味で原作ではスレイは否定された果てに救いとしての殺しを選び、ロゼは否定されずそのままだった。一方でアニメでは殺しという点においては全く逆の構図になりました。
うんうん。後者の方が納得しやすいよかったね……。
と、話が終わりそうなのですが、終わりません。
私が気になるのは風の骨におけるルナールの存在です。
彼は風の骨に所属していましたが、彼らと反目します。その果てにロゼと対峙するわけですが、その際明確にロゼの殺しを「ただの人殺し」と否定します。
そうです。
否定です。
Zxでスレイが殺しの否定をする前に、そもそも彼女たちの殺しについて所詮人殺しと否定していたのはルナールの方だったと思うのです。いわば、風の骨という社会におけるサイコパス、ですね。
結局原作ではそれによる葛藤→考えの変化を生めていないというのが最大の悲劇ではあると思うのですが、「どんなに取り繕ってもお前のやってることは殺しでしかないしおれみたいな穢れたものが生まれるようなモンなんだよ」と指摘すること自体はロゼの問題提起にはなっていたんじゃないかなあと思うんですよね。
思うんですよね……(Zxルナールの華麗な散り方を見つつ)。
ルナール本人はZxの描写を信じるのであれば、単に誰かのために良いことをしたかったけれど、そのために手を汚す=風の骨の考えを是とできなかっただけの普通の人だったのかなあと思いました。
だからこそロゼの否定者としての立場を崩さないでほしかったなあ~という我儘。
同じことはマルトランにも言えて、彼女もまたアリーシャの否定者でいてほしかったですね。師匠の裏切りというエピソードは確かにつらすぎる出来事ではあるけれど、姫であることを選び続けるという選択の上に、彼女のようになる可能性は必ずあると思いますので。
彼らの否定の上で葛藤し、それでもなお選んだ「浄化」の選択により従士であることを選び続ける……というのがロゼアリにおける一番の理想だった、という話でした。
おしまい。